会社紹介映像
パイオニアのDNA〜受け継がれる創業者の精神〜
※ダイジェスト版
このビデオでは稲畑産業のルーツに焦点をあてながら、現代までの道のりをご紹介します。
神坂 雪佳 筆 絵巻物
稲畑産業の創業者・稲畑 勝太郎は、1862年(文久2年)10月30日、京都烏丸通御池東南角で、父利助、母みつの長男として生まれました。生家は「亀屋正重」という皇室御用達の菓子舗でしたが、勝太郎が2歳の時、蛤御門の変で焼失。翌年、京都三条大橋東5丁目で小さな菓子舗を再開しましたが商売は振るわず、暮らしは打って変わって貧しいものとなりました。
それでも勝太郎は不遇に屈することなく勉学に励み、1876年(明治9年)、京都に師範学校が創設されると、府下の小学校から抜擢され、第1期生として入学しました。
翌年、京都府は8人の留学生をフランスに派遣。15歳の勝太郎もその一人に選ばれました。留学を進言し、引率したのは京都の仏語学校教師でフランス人のレオン・デュリーでした。
勝太郎は欧州最大の絹織物の産地、リヨンのヴェル・フランシュ工業予備校とラ・マルチニエール工業学校で化学工業の基礎を学び、マルナス染工場で3年間の実地研修を行いました。この間、欧州各国を視察し、その後はリヨン大学で応用化学を専攻しました。
創業者 稲畑勝太郎 自筆ノート
稲畑勝太郎は15歳の1877年(明治10年)に京都府派遣留学生8人に選抜され、23歳の1885年(明治18年)まで、リヨンなどフランスで主に染色技術を学んだことを、人生に大きな影響を与えた出来事として挙げています。そのフランス留学時代や帰国後にフランス語で書いたノートを紹介いたします。留学中8年間に残された2冊は①「ラ・マルチニエール工業学校とマルナス染工場時代のノート(1879年)」(66頁)と、②「リヨン大学時代のノート(1884-85年)」(129頁)です。さらに、三度目のフランス視察直後の③「フランスの取引先などに宛てた書簡の写し(1897年)」(100頁)と、「製造見取図」です。
- ①「ラ・マルチニエール工業学校とマルナス染工場時代のノート(1879年)」(66頁)(56.5MB)
- ②「リヨン大学時代のノート(1884-85年)」(129頁)(122.5MB)
- ③「フランスの取引先などに宛てた書簡の写し(1897年)」(100頁)(201.9MB)
- 製造見取図(3.4MB)
③「フランスの取引先などに宛てた書簡の写し(1897年)」(100頁)のなかには、「稲畑勝太郎のリュミエール兄弟宛て書簡4通(1897年)Quatre lettres de Katsutaro Inabata aux frères Lumière (1897)」が含まれています。シネマトグラフを発明したフランスのリュミエール兄弟による世界規模の映画事業の一環として、稲畑勝太郎が1897年(明治30年)にシネマトグラフの輸入や主に京都や大阪での興行をめぐってリュミエール兄弟との間で交わしたやりとりの一端が克明に記録されていて、なかにはこれまで知られていなかった新事実も含まれます。この貴重な記録のフランス語原文の採録とその日本語訳をここに紹介いたします。
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「稲畑勝太郎のリュミエール兄弟宛て書簡4通(1897年)」のフランス語採録と翻訳(9.7MB)
京都国立近代美術館に当社の寄託として保管されている当資料は、2017年6月14日に長谷憲一郎氏(映像ディレクター)により発見され、初めて研究に活用されました。
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