稲畑勝太郎は京都府派遣留学生としてフランスに留学後、
習得した染料・染織技術をはじめとする西洋の先端技術の
国内普及に尽力しました。
シネマトグラフを輸入し、国内初の映画興行を行ったのも勝太郎でした。
創業者の生い立ち
( 文久2年~明治9年)
0-14歳
1862~1876年
京都の烏丸御池にあった皇室御用達菓子舗「亀屋正重」の長男として誕生。
2歳の時、生家を禁門の変にて焼失。一家で山科に避難し貧しい生活に陥るも、不運に屈せず勉学に勤しむ傍ら、 家業も手伝う。
EPISODE
勝太郎は貧しい生活を支えるため、
両親の営む和菓子屋を手伝い、冬の寒空の下でも 菓子の風呂敷を背負って町から町へ行商にでかけ、一日を終えて家に帰ると父親に教えられて一心に勉強をしました。
10歳で京都府下の全小学生から選ばれ、京都行幸中の明治天皇の御前にて日本外史を誦読。褒美としてコンパスを下賜される。
14歳で京都府下の小学生から選抜されて、京都府師範学校の第一期生として入学。
フランス留学時代
( 明治10年~明治17年)
15-22歳
1877~1884年
15歳で京都府より産業振興を目的に勝太郎含む8名がフランス留学生に選ばれ、医学博士でフランス語教師のレオン・デュリー氏に伴われてフランスへ渡航。
8人の留学生とその専攻
・稲畑勝太郎:染色
・佐藤友太郎:陶器
・近藤徳太郎:織物
・中西米三郎:機械
・横田万寿之助:製麻
・今西直次郎:製紙、撚糸
・歌原重三郎:鉱山
・横田重一
:美術
マルセイユやリヨンでフランス語を習得した後、 リヨンのマルチニエール工業学校で染色を学ぶ。
18歳からマルナス染工場で
徒弟として3年間働き、 実技を学ぶ。
EPISODE
マルナス染工場では、冬に3時間も凍った川で絹糸を洗うことも。 ある日、 フランス人の同僚にけんかを吹っかけられた勝太郎は、相手を投げ飛ばして打ち負かしました。 入院を余儀なくされた同僚を勝太郎が見舞い、和解。その後、同僚からの信頼を得て工場内で人気者になりました。
欧州諸国の染色工業を視察後、 リヨン大学で応用化学を学ぶ。
帰国から創業へ
( 明治18年~明治27年)
23-32歳
1885~1894年
23歳でフランスから帰国し、京都府庁に奉職。
25歳で日本最初の機械使用の絹織物染織会社である京都織物(株)創立に貢献。
EPISODE
登美夫人と結婚1か月後に京都織物より解雇。勝太郎らが輸入した高額な紡織機械等、多大な設備投資による採算悪化が背景にあった。
26歳で技師長に就任し数々の染色技術を開発するも、2年後に多大な設備投資による採算悪化の責任を取る形で突如解雇となる。
28歳(1890年)、夫婦で京都に「稲畑染料店」を創業。フランスの染料会社であるサンドニ―社を皮切りに、欧州の染料会社の日本代理店として染料の直輸入業を営む。同業者と協力して業界紙に寄稿するなど、染織業界の発展に貢献した。
EPISODE
創業当初は夫妻だけで、 店主は毎日、染料の見本を風呂敷に背負って 市中の染屋から染屋へと売り歩き、 妻の登美は店で洗面器に湯を沸かして 染料の試験をしました。
外国商館などを通じて日本に輸入される染料の粗悪な状態をみた勝太郎は、「品質の良い染料を欧州より直輸入し、使用法も教えることで日本の染色技術を改良し、染色業界が堅実に発展することに寄与したい」という想いを広告に綴った。
染織産業の育成
( 明治28年~大正4年)
33-53歳
1895~1915年
EPISODE
紡織技術については専門外だった勝太郎は、モスリンの製法を学びに渡仏するも、技術の国外流出を恐れて容易には教えてもらえず、スパイと疑われる一幕も。その中、留学時代の学友が尽力し、紡績工場を研究のために開放してくれたことで、なんとか技術を習得できたという。
33歳の時毛斯綸紡織(株)を設立し、監査役となる。当時大量に輸入されていた「唐ちりめん」と呼ばれる毛織物モスリンの国産化を目指した。モスリン紡織技術習得と設備購入のため渡仏し、翌年帰国後に大阪・中津に工場を建設した。
アルザス社の紡織機械が最良であることを知り、同社の各種機械を輸入販売する契機となった。
- 毛斯綸(モスリン)とは
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薄地で柔らかくまた暖かいというウール素材で、着物用に広く用いられた。当時の日本では、絹よりも高価な輸入品で、フランスの重要な輸出品の一つであった。年間輸入量は、1873年に約500万ヤード、96年には約3,700万ヤードと増え続けていた。
35歳で綿布の染色加工のため稲畑染工場を創立し、社長に就任。欧州から優秀な染色機械を導入し、最新の染料を使用して勝太郎自ら技師や職工を養成した。
特に海老(えび)茶染は明治中期に流行し、「稲畑染」と呼ばれて、女学生の制服や婦人用袴に使用された。
日露戦争時は、軍服用に戦場で目立ちにくいカーキ染を考案した。
EPISODE
阪急電車創業者の小林一三は、当時流行していた海老(えび)茶染の女学生の袴の色を見て気に入り、電車のボディカラーに採用したという。
参考文献:武部好伸(2016年)『大阪「映画」事始め』.彩流社
貿易促進と民間外交
( 大正5年~昭和24年)
54歳-晩年
1916~1949年
54歳(1916年)の時、日本染料製造(株)創立に参画し監査役に就任。
赤字続きの体制の一新と経営の強化が要望されて、64歳の時に勝太郎が社長就任。
販売体制確立のため、稲畑商店、長瀬商店など7社で「日染会」を結成。日本染料で生産される全染料を一定数量を責任をもって引き取って販売する体制をつくり、昭和初期の空前の不況下においても年々業績を向上させていった。
昭和18年軍需会社法が施工された際、原料供給など関係の深かった
住友化学工業(株)(現 住友化学(株))と合併した。
57歳で大阪駐在ボリビア国名誉領事に就いたのを始めとして、ポルトガル等欧州数か国の名誉領事となり、民間外交に尽力した。
60歳の時、大阪商業会議所(現商工会議所)の第10代会頭に就任。中国・欧米各地を視察し、ILOが主催する国際労働総会に日本代表としてジュネーブを訪れる。その経験を「欧亜に使して」の書籍として出版。
64歳で貴族院議員に選出。当時のフランス大使で詩人としても有名なポール・クローデルと日仏文化協会を創立。関西の財界有力者に寄付を募り、京都九条山に「関西日仏学館」を建設した。
EPISODE
京都南禅寺畔の稲畑邸「和楽園」は境内5千余坪に及び、その景観は洛中有数のものであった。大正時代から昭和にかけて、取引先の接待、業界の集い、政財界の巨頭や外国の元首・高官・賓客の歓迎会、社内の園遊会などが頻繁に催された。
EPISODE
【京都織物会社
設立時】
創業者が近代的な織物会社の必要性を力説し、賛同した澁澤が京都府知事や財界人に協力を募った。
【日本染料製造
設立時】
大阪商工会議所副会頭だった創業者は、第一次世界大戦により輸入が途絶えた合成染料の国産化の必要性を説いたところ、澁澤も協力し同社の役員に名を連ねた。
日本 | 勲2等瑞宝章、勲3等旭日中綬章、緑綬褒章、紺綬褒章 |
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フランス | エトアル・ノアル(勲1等)章 レジェン・ド・ノール(勲2等)章 カンボジュ(勲1等)章 |
ベルギー | レオポール(勲1等)章 |
ルーマニア | クーロン(勲1等)章 |
ローマ法皇 | サンシルベストル(勲1等)章 |
ポルトガル | メリット(勲1等)章 |
エチオピア | エトアル(勲1等)章 |
ポーランド | ホルスキー(勲2等)章 |
チェコスロバキア | 白獅子(勲2等)章 |
ボリビア | コンドール・ザンデス(勲2等)章 |
安南 | 龍星第2等勲章 |
シャム | 白象(勲3等)章 |
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47年間
1890-1937
創業者
稲畑 勝太郎
1862 - 1949
1890年
世の中の出来事 1894 日清戦争 1904 日露戦争 1914 第一次世界大戦 1923 関東大震災 明治23年創業
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稲畑染料店創業
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シネマトグラフを持ち帰る
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株式会社稲畑商店設立
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32年間
1937-1969
二代目社長
稲畑 太郎
1898 - 1988
1937年
世の中の出来事 1939 第二次世界大戦 1945 戦争終結 1950 朝鮮戦争 1964 東海道新幹線開通
東京オリンピック昭和12年社長就任
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日本染料製造株式会社と
住友化学工業株式会社合併
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ポリプロピレン日本初輸入
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大証第二部上場
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東証第二部上場
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3年間
1969-1972
三代目社長
伊藤 英夫
1902 - 1977
1969年
世の中の出来事 1971 ニクソンショック 昭和44年社長就任
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創業80周年
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新東京本社ビル施工
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26年間
1972-1998
四代目社長
稲畑 勝雄
1926 - 2021
1972年
世の中の出来事 1979 第二次オイルショック 1980 イランイラク戦争 1987 ブラックマンデー 1989 ベルリンの壁崩壊 1991 ソビエト連邦解体 1993 欧州連合(EU)発足 1995 阪神大震災 昭和47年社長就任
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東京・大阪証券取引所第一部へ
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医薬事業部営業譲渡
住友製薬誕生
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創業100周年
新大阪本社ビル施工
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7年間
1998-2005
五代目社長
稲畑 武雄
1938 - 2005
1998年
世の中の出来事 2001 米同時多発テロ 2003 イラク戦争 平成10年社長就任
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事業を5分野(情報電子・住環境・
化学品・合成樹脂・食品)に再編
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ISO14001認証取得
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執行役員制度を導入
ISO9001認証取得
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2005~
現在六代目社長
稲畑 勝太郎
1959 -
2005年
世の中の出来事 2007 iPhone 発表 2008 リーマンショック 2011 東日本大震災 2022 ウクライナ戦争 平成17年社長就任
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経営理念発表
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当時15歳の創業者は、京都府派遣の7名の留学生と共に渡仏しました。
横浜港を出発し、フランスのマルセイユ港に到着するまでの44日間の航路を水色の線で記しています。
現在(2023年7月時点)の当社グループのグローバルネットワークは、海外の商社拠点を●で、製造加工拠点を▲で表しています。