稲畑のキホン

会社は老舗、
心はベンチャー。

IK基本ステータス

稲畑産業の会社概要、
大事にしている「愛・敬」精神について。
商社の基本的な役割とは?

会社概要

社名
稲畑産業株式会社(英文: Inabata&Co.,Ltd.)
生まれた年
1890年(明治23年)
ウェブサイト
www.inabata.co.jp

理念

受け継がれる「愛・敬」の精神。

創業から親しまれてきた稲畑産業のロゴマーク「IK」。 このマークは創業者・稲畑勝太郎のイニシャルであると同時に「愛・敬」の意味が込められている。 「人、そして社会を大切にしたい」。 マークに込められた想いは、いまでも受け継がれ、「IK Values」という共通の価値観として社員全員に共有されている。 相手を愛し、敬う心、これがIKパーソンの基礎となっているのだ。

Vision

未来を見据えた、IK Vision 2030。

稲畑産業は、長い歴史の中で時代の変化に柔軟に対応することで、お客様の信頼を得て、進化してきた。 「愛・敬」の精神を継承しつつ、常に未来を見据えて新たな価値創造に邁進する。 そんな稲畑が2017年に策定した「IK Vision 2030」は10~15年後の会社のありたい姿を提示している。

機能:商社機能を基本としつつも、製造・物流・ファイナンス等の複合的な機能の一層の高度化を図る。 規模感:連結売上高 1兆円以上を早期に実現。 海外比率:70%以上。 ポートフォリオ:情報電子・合成樹脂以外の事業の比率を1/3以上に。

「商社」って、何屋さん?

「商社」という単語を聞いたことがない人は、おそらくいないはず。 でも「商社」が何の会社なのか説明できる人は? 意外と少ないんじゃなかろうか。 「商社」の仕事は、簡単に言うと、売り手である企業(原料メーカーなど)とその商材の買い手である企業(製造メーカーや小売など)をつなぐ存在。 ただし、単にモノを右から左へと流すのではなく、両者のニーズに応えて+αの付加価値を提供しつつ、世の中がより発展するようヒト・モノ・カネ・情報等あらゆるサポートをおこなう。 ではその付加価値とは一体何か? それは取引によって様々。 商売の数だけ価値を生み出す、それが、商社の役割なのだ。

「総合」と「専門」のちがいって?

稲畑、これまでの歩み。

IKの歴史は、1890年までさかのぼる。
130年を超える歴史の中でどのように
発展してきたのかを簡単にみてみよう。

1877

稲畑産業の原点、
リヨン。

古くから「絹の町」として、また、交通・交易の街として繁栄したフランス有数の都市リヨン。 1877年に、その地に降り立った一人の若者こそ、創業者・稲畑勝太郎。 当時ヨーロッパ最大の絹織物の産地であったこの土地で、最先端の染料技術を学ぶとともに、のちの会社発展を支える先見性や独創性を育んだ。

1890

はじまりの名は、
稲畑染料店。

1890年、勝太郎は京都に稲畑染料店を開業。 これが、稲畑産業のはじまりだ。 勝太郎は、欧州から染料・染色機械や薬品、香料、医薬品などを輸入する一方で染色技術の指導にも力を注いだ。 先進的な商品や技術導入には、日本の近代化への貢献という強い想いがあった。

1927

育ての親、
フランスへの恩返し。

2012年に「アンスティチュ・フランセ関西」と改名された関西日仏学館は、当時の駐日大使ポール・クローデルと稲畑勝太郎が設立した日仏協会の活動拠点として、1927年につくられたもの。 稲畑産業はフランス文化を発信する同館の活動に協賛している。 「若き日の自分を育てたフランスへの恩返しがしたい」という勝太郎の想いは、いまでも生きているのだ。

1943

ググッと飛躍の、
事業拡大期。

現在の「稲畑産業」と社名を変更したのは、1943年のこと。 戦時中は、会社の存続に全力を尽くし、戦後の高度経済成長とともに事業規模を大きく広げ、1973年には大阪・東京の両証券取引所の第一部に上場を果たした。

戦後初の海外拠点 → 1976年、イナバタシンガポール設立!

2020

100周年、130周年、
そしてその先へ。

2020年に創業130周年を迎えた稲畑産業。 「愛・敬」の精神を引き継いで、着々と歴史を積み重ねながら、時代に合わせた進化を遂げている。 次の20年、30年とさらなる発展に向け、新しいビジネスへ挑戦し続けている。


3つの目で紐解く稲畑。

IKの商いを「ヒト・コト・カネ」の視点で紐解いていく。
また、主要な商いについて、どんなことをやっているのかを説明する。

1ヒト

「心・技・体」揃って、
一人前。

稲畑の仕事には、心技体すべてが必要になる。 稲畑の社員の『心』は、謙虚で誠実に相手の想いを汲んで行動すること。 そして様々な情報を結びつけ、自分でビジネスを創造していく『技』。 最後の『体』は、人よりも一歩先に出て、泥臭く、粘り強く、お客様のニーズに徹底的に応えていくところ。 この3つが揃ってこそ、一人前の稲畑の商人だ。

2コト

稲畑は、
かゆいところに手が届く。

取引先のニーズに徹底的に応えていくことで価値を生み出すのが稲畑のスタイルだ。 少量多品種、加工、物流、在庫等きめ細やかなサービスを提供することで、取引先をパートナーとして支えている。 そして、商材、マーケットについての深い知識はもちろん、豊富な人脈から得た情報を様々な分野へとつなげて新たな価値を生み出すことが稲畑の仕事だ。

3カネ

世界に広がる商売と、
堅実経営。

稲畑産業の連結売上高に占める海外比率は、5割以上。 第二次世界大戦によってすべての海外拠点を失ったが、そこから見事に復活し、いまでは十数ヶ国、約60拠点以上にわたって商売を展開している。 また、稲畑は堅実な経営姿勢も大きな特徴だ。 自己資本比率が40%を超えていることにも、その特徴がよく表れている。


稲畑の商い。

情報電子

液晶パネルやデジタル印刷、新エネルギー分野まで、幅広い原料や製品を供給。 海外ネットワークを生かして顧客をサポート。

合成樹脂

日用品から自動車部品まで、多様な業界向けのプラスチック原料・製品を手掛ける。 製造加工機能でものづくりを支える。

合成樹脂 = プラスチックかなー?

化学品

稲畑の商売の源流。 染料から始まり、現在は自動車部品・電子材料・塗料・建築資材などの業界へ高機能化学品を提供。

生活産業

健康で快適な生活のために、医薬納品、防虫・殺虫剤、化粧品等の原料から、水産物・農産物まで、様々なビジネスを展開。

各事業セグメント・営業本部の詳細は、
稲畑産業コーポレイトサイト
事業紹介」ページでCHECK!

はみだしコラム その1「IK」が、日本に映画を
運んできた。

1897年2月15日、日本の映画興行におけるはじまりの日に、大きく関わったのが創業者である稲畑勝太郎だった。

1897年2月15日。 この日は日本の映画興行において、はじまりの日だ。
この日、大阪・ミナミの南地演舞場でフランスのリュミエール兄弟が発明した映写機「シネマトグラフ」によって映画が日本で初めて興行された。 見たこともない「動く写真」に驚愕・歓喜する人々。 その熱狂を生み出した張本人こそ、稲畑産業の創業者・稲畑勝太郎なのだ。 勝太郎と発明者、オーギュスト・リュミエールは留学した際の同窓生であった。 1896年に二人はフランスで再会し、そのときに初めて勝太郎は「シネマトグラフ」を観てこれを日本に持ち帰る決意をした。 その決意の裏にあったのは「西洋文化を日本に紹介したい」という想い。 当時の日本は欧米に遅れをとっていたにもかかわらず、古い考えの人々が多く、フランスから最新の染料技術を持ち帰って教えていた勝太郎にはもどかしい気持ちがあった。 「いまのままでは、日本の技術は前に進まない」そう考えた勝太郎が、欧米文化の発展をわかりやすく見せようとした結果が「シネマトグラフ」の輸入だった。 映画の興行には莫大な費用がかかる。 もし、勝太郎が利益だけを追求する人物だったら、映画を持ち帰ろうとは思わなかっただろう。 勝太郎は、日本の技術発展を一番に願っていた。 自社の利益だけにこだわらず、社会の発展を大事に考えた勝太郎の愛敬の精神が、日本に映画をもたらすきっかけとなったのである。

映画のこと知らなかった! 勝太郎さん、すごー!!
About Next
次は、稲畑の歴史について。
けっこう長い歴史を歩んできたんです。
次は、3つの目で紐解く稲畑。
「ヒト・コト・カネ」は、よく聞きますよね?
次は、実際に稲畑が
どんな商売をしているかをご紹介します。
次は、稲畑の衝撃な事実!?
次は「稲畑のおしごと」についても是非ご覧ください。