稲畑産業株式会社 社内報「いなほ」220号
13/13

発 行 者 稲畑産業株式会社 総務広報室 東京本社 050-3684-4063 大阪本社 050-3684-4138 発 行 日 2018年1月1日編集協力 株式会社産業編集センターここは挑戦者たちの劇場だ。IKパーソン不屈の精神で経営危機を乗り切る日本染料製造の合成染料国産化から世界へ創業時より脈々と受け継がれる稲畑産業の挑戦のDNAをご紹介します。1914年の第一次大戦勃発により、主要生産国だったドイツからの合成染料の輸入が途絶えた。国内では価格が高騰、当時大阪商業会議所の副会頭だった創業者は合成染料の国産化を政府に働きかけた。この結果、染料・医薬工業会に対し政府補助金の交付が決まると同時に、政府の肝いりで※日本染料が設立された。原料高騰など大戦の影響による苦難の末、日本染料は18年に本格稼働にこぎ着ける。だが戦争終結とともにドイツ製品が再び国内市場を席巻。政府補助金支給も打ち切られ、日本染料は経営の重大な局面を迎えた。会社解散か存続かで二分する株主総会で、取締役だった創業者は「染料製造のような国家的事業では利害を超越する覚悟が不可欠」と解散派を説得。解散を食い止め、26年、社長に就任する。創業者自らフランスに赴き、最新製造法の入手に成功。後に日本染料の製品は、国内販売にとどまらず、世界各国に輸出されてドイツ製品や米国製品と肩を並べて競うようになった。日中戦争が勃発し、軍需会社法が施行されるなど政府による経済統制が強まる中、日本染料は原料供給などで関係の深かった住友化学工業と44年に合併した。稲畑産業は住友化学の特約販売店に指定され、今日に至る緊密な関係が築かれるきっかけとなった。※日本染料:日本染料製造株式会社 第二次大戦中、非軍需の日本染料の経営は厳しさを増していた。民間経済活動への影響を強めていた政府は、1944年、有機の日本染料と無機主体の住友化学を合併させ、総合化学企業への道を歩ませる。一方、住友化学の工業薬品の特約店だった稲畑産業は日本染料との特約関係も継承され、両社の関係が深まった。84年、両社は住友製薬(現・大日本住友製薬株式会社)を設立。日本染料のDNAは、創業者の思いとともに今日に受け継がれている。住友化学との関係の深まり受け継がれる日本染料製品の小分け包装に使用した稲畑商店の商標1928年頃の日本染料製造 大阪工場全景(現在の住友化学 大阪工場(春日出))日本染料(大阪工場)にて 創業者(正面中央シルクハットを被った男性)と従業員の集合写真vol.04日本染料の染色標本

元のページ  ../index.html#13

このブックを見る