稲畑産業株式会社 社内報「いなほ」218号
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発 行 者 稲畑産業株式会社 総務広報室 東京本社 050-3684-4063 大阪本社 050-3684-4138 発 行 日 2017年7月1日編集協力 株式会社産業編集センターNo.218July 20177ここは挑戦者たちの劇場だ。IKパーソン輸入が増え続けた人気素材「毛モスリン斯綸」大阪で量産開始、国産化に大きく貢献vol.02創業時より脈々と受け継がれる稲畑産業の挑戦のDNAをご紹介します。1894年、京都・西陣の織物業は日清戦争による不況に苦しんでいた。そこで西陣の有力者たちは創業者・稲畑勝太郎(以下、創業者)に相談を持ちかける。創業者が出した答えは「毛斯綸の国産化」であった。――日本で毛斯綸を製造できれば、将来の国家のためになる。そう考えた創業者は自宅で研究を開始。試行錯誤を重ね、95年、「毛斯綸紡織株式会社」を設立した。翌年、創業者は単身渡仏。産業スパイと疑われ村を追われても研究を続け、当時最良といわれた紡織機械を製造するアルザス社との取引も開始した。安価で高品質な国産の毛斯綸事業は順調に拡大。兵庫県の尼崎・今津にも工場ができ、最盛期には61,000錐の紡績機と1,700台の織機を稼働させるまでになった。しかし、大正末期になると洋服が流行し始め、1927年には他社と合併。約30年の歴史に幕を下ろしたが、毛斯綸に込めた創業者の情熱は、現在へ脈々と受け継がれている。DNA 毛斯綸紡織機械の輸入がきっかけで取引が始まったアルザス社※。その後、アルザス社の日本代理店として機械部を創設。戦後に取引を再開し、電子材料など取り扱い商品の幅を広げた。そして、現在の情報電子事業へとつながっていく。※アルザス社1870年代の設立以降、フランスの通信設備・重工業の礎の一つとなった。その後分離・統合を重ねて、現在一部は、通信機器大手のNOKIA社に至っている。毛斯綸から情報電子事業へ受け継がれる1910年の毛斯綸紡織株式会社全景(大阪・中津)産業スパイと疑われ、村人に取り囲まれる創業者(神坂雪佳画伯・絵巻物より)創業者が輸入した毛斯綸の生地(京都工芸繊維大学所蔵)薄地で柔らかくまた暖かいというウール素材で、着物用に広く用いられた。当時の日本では、絹よりも高価な輸入品で、フランスの重要な輸出品の一つであった。年間輸入量は、1873年に約500万ヤード、96年には約3,700万ヤードと増え続けていた。毛モスリン斯綸とは

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